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プライベート・プレス──書物と紙片にまつわるエトセトラ
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やさしくきよらかな、一枚のうすき墓標《1》
★2006年に発行された『紙魚の手帳No.36 おしゃれな蔵書票』に寄稿したエッセイです★

紙魚1

第1章.....朽ちた館、過去の一枚、ちいさき紙片

 少女のころを、冬の早い土地で過ごした。
 学校からの帰り道、通学路を右にそれるとはじまるこんもりとした森の入口に、ひとりの時はきまって足を止めた。そこには、一軒の廃屋となった煉瓦色の洋館が建っていた。鬱蒼とした木々に埋もれたそれは、全体像を葉々の蔭に隠し、建物のほんとうの色合いや大きさを、あいまいで、ぼんやりとしたものにしていた。
 詳しいことは今もわからずじまいだが、同級生の祖父が建てたらしいものであったそれは、幼き者にとって、見知らぬ瀟洒と洗練が蔦とともに絡みついた、外つ国への入口であった。と同時に、理解の及ばぬままに美に魅入られた、最初の体験でもあった。
 小鳥のさえずりや四つ葉のクローバー探しの横で、ひっそりと闇を深める館の息づかいは、幼心を執拗にとらえ、朽ちた扉に近寄っては、鍵穴から洩れくるひんやりとした肌理に感じ入り、壁肌を這う小暗き風に耳を寄せては、日の暮れるまで、扉向こうを想ったものだった。
 ・・・其処にはたしかに、不思議な気配があった。土地の住人たちとは違う時間を重ねてきた沈黙、しんしんと降り積った埃が留める途方もない静寂、煌めきと凶々しさの両方をそなえた、御伽噺の書物の頁に似た気配が・・・
 そしてあの館はたしかに生きていた。時に青々と葉をゆらし、時に嵐の夜を不気味に過ごし、また時に美しく白銀を纏いながら、静かな息づかいを近づく者のこころに響かせていた。孤独のうちに幕を閉じた悲恋に近しい幻影を、そっと耳打ちしてきた・・・


Shimi_2.jpg


 追憶の風景・・・それは、輪郭もぼんやりとして、シフォンレースを一枚一枚くぐるような奥行きをもち、霧ほどの湿度を含んでいる。孤島にたどり着いた小舟のような気分を、そのたび呼び覚ます。
 いつなんどきもあの朽ちた館に行き着き、館の周囲を巡るわたしの追憶は、少女のころの日々と同じく、決して扉を開けることはない。誰ひとり、住まうものもいない。しかし其処には、ひとの痕跡や、ひとが去った後の情緒をうっすらと留めた空気感が、モノや風景とともにに熟成されて、こんこんと眠りつづけている。懐かしくも、どこかよそよそしい過去の幻影が、時折、やさしい日が射し込みつつも、悲しみと深憂に満ちた見捨てられた庭園のように、眠りつづけている。
 『大いなる遺産』のミス・ハヴィシャムの、止まったままの懐中時計のように、あるいは死都ブリュージュを描いたクノップフの絵画のように、またあるいは悲恋にけぶるクランコのバレエ『オネーギン』の舞台のように、追憶にかすんだ美しき芳香にふれたとき、眠りつづけていたあの館はしずかに息をしはじめ、その芳香を、館の中にしまい込む・・・
 やがて、かぐわしさをふくんだ館は一枚、また一枚と、過去の断片を現在へと送りだす。その一枚は、詩情という衣を纏い、憂愁という重さを持って、あたかも外つ国への招待状の風情で、この掌へ届けられる・・・芳香にふれた追憶の風景、過去の一枚とは、何という美しさを湛えていることだろう! 現在の持つ生々しさ、荒々しさは一掃され、一篇の詩のような憂いを含んでいる!



 掌におさまるちいさき紙片の一枚・・・それを愛してやまないのは、それが茫々たる外つ国への入口であり、現在を埋葬した、かぐわしき追憶そのものであることを思わせるからである。
 古き書物、古き装身具、古き調度、古き建物、あらゆる古きさまざま・・・時のすすり泣きが積る、やさしくきよらかな詩情以外に、どんな美がありえよう?(古きモノを惜しげもなく壊しつづけ、失いゆく美の重さに鈍感なこの時世・・・嗚呼、処刑されし気高き詩情よ! その無謀にこころを痛める日々にあっては、追憶の館のみが、その詩情を安心してしまっておける場所なのだ・・・) 
 そしてちいさき紙片をつくり続ける理由もまた、刻々と過ぎゆくその無謀に、せめて少しのやさしさときよらかさを、墓標のごとく咲かせたい・・・と願うせいである。(墓標は、失ったものへの嘆きと、麗しき過去を回想すること以外、何も約束しない・・・)

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