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プライベート・プレス──書物と紙片にまつわるエトセトラ
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短編童話《夏の日の黒い香水壜》


 あめふりあめふりいやな雨……絵本の中のマリーちゃんはそう言うけれど、薄ももいろの小さな花びらに嫉妬するように降る、お花の頃の雨は、他人事のようには思えず、聞き耳を立ててしまいます。

 そんな頃を幾度重ねたことでしょう……もうずいぶんとお会いしていませんね。
 でも、不思議なことに、今の方がかえって身近に感じるのは、わたしが人を避け、過去の頁をめくることに日々を費やしているせいかしら?
 こうして筆をとったのも、抜け落ちたページや破れたページを、修復しようとしているのかもしれません……

 覚えていますか? あの小さな香水壜のこと。
 手紙や日記を整理しようと古い箱をひっくり返したら、過去の封印をとく時が来たよ……と、胸を打つ小さな一撃のような音を立てて、床に転がりました。
 黒檀と銀細工でできたそれは、幼い頃のわたしたちにはずいぶんと大人っぽくうつったものです。

 幽霊屋敷、と呼んでいた廃墟の洋館の、二階の鏡台の引出しの隅に、さみしく置き去りにされていたそれを、昨日のことのように思い出します。恐怖をのりこえるほどに強いあなたの好奇心に、あの頃のわたしはいつも羨望の気持ちを抱いていました。
 香水壜は交換日記と一緒に、一日交代でそれぞれの手元に、二人の宝物はいつでも交代で持っていましたよね。

 ……そう、あの夏の日のことを、いつか必ず言葉にしなければ……と思い続けてきました。
 思い返そうとしても、その記憶があの日の陽射しのように鮮烈すぎて道筋が途切れ、正確に辿れないほどです……
 海の近くに育ちながら、ふたりとも水が恐くて、それでも水玉模様の浮き輪やお揃いの水着を着たいばかりに、海へと向かいましたよね。

 あの日は、泳ぎの得意な同級生も一緒で、ふたりだけの海水浴とは違う、少し背伸びをしなければならない場面に直面して、ふたりとも強がって、おずおずと沖へ向かい、あまりの恐怖にわたしは小さな浮き輪をかかえていたけれど、勝ち気なあなたは同級生たちとともに、優雅に沖へと泳ぎ出しました。
 水面にきらきらと照り返す、のびやかな陽射しに包まれながら、わたしはだんだんと深くなってゆく海の底を想像して、皆がひきかえそうと言い出すのを神様に祈るばかりでした。

 そんな時でした。年頃の少女たちにありがちな悪ふざけ、海をこわがるわたしにちょっとだけ意地悪をするつもりで、わたしの浮き輪を遠くへほうり投げました。
 実際は、たった1メートルぐらいだったけれども、わたしは足先に感じていたほのぐらい恐怖に占領され、手足はこわばり、必死の形相で、永遠に辿り着けそうにない遠くの浮き輪めがけて、死との格闘をはじめました。

 ……不思議なものです。死と格闘しながら、もうひとり、死と格闘している誰かを認識しているのですから。
 決して冷静さの入る余地のない、極限状態におかれていながら、視界の端にうつった現象を認識し、判断する……そう、浮き輪を求めているもうひとりの誰か……その誰かよりも早く浮き輪にたどり着かなければ死んでしまう……

 それがあなただとはっきりわかっていました。
 ふたりが浮き輪をつかんだのは、ほぼ同時でした。そして、強い力でつかんだせいで、一瞬、浮き輪が沈みかけました。
 その時、とっさにわたしは、あなたから浮き輪を奪うように、あなたの腕を浮き輪からふりはらいました。

 ……死の恐怖への安堵とともに、死に匹敵する過ちと、自分さえ知り得なかった本性、それをあなたに知られたことへの恐れなど様々な感情が、あなたの驚きに満ちた、そしてかすかな笑みを含んだ顔と共に、一気に押し寄せてきました。
 ほんの数秒間の、二人だけの出来事でした。
 この期に及んでなお、このことをあなたが誰かに話はしないか、そればかりを必死に心配し、怯えていたことを思い出します。
 
 表面上は、何も変わりませんでした。
 いつものように手を繋いで一緒に登校し、夕方あなたの家で〈赤毛のアン〉をみたり、宿題をしたり、読書の競争をしたり。
 でもあなたとわたしの視線のやりとりの間には、常にあの日の出来事が横たわり、あの日以来、わたしはまっすぐあなたを見ることができなくなっていました。
 子供ながらにも、事の深刻さ、そして何よりも、自分自身の品性の卑しさに打ちひしがれ、謝ることが当然だとわかっていても、それを口にすることでかえって罪人の烙印を刻まれてしまうような、そんな恐怖に日々おびえていました。 

 しかし同時に、自分ではどうにもできない、わき上がる見知らぬ感情に、胸を痛めてもいました。
 それは罪人には不謹慎なほど、純粋で恥らいのある想いでした。
 そしてあなたのなかにも同じ想いがあることを確信しながら、しかし一度口に出してしまったら、泡のように消えてしまうことも、ふたりにはわかっていましたよね……なぜ、このような想いが、あの夏の日の後、ふたりの中に同時に存在したのでしょう……

 ただひとつわかることは、心臓の高鳴りを確認し合うすべを持ち合わせていなかったことが、二人をより強く結びつけていたこと、そして、一方では甘く、また一方では苦しいその関係が、もう二度と手にはいらないたぐいの奇蹟であったこと……
 こうやって冷静に判断できるのは、わたしが追憶の中で日々を生きている証拠かもしれません……

 ただただわたしは、あの日のことを書き留めたかったのです。
 わたしのひとりよがり、身勝手ばかりでごめんなさい……
 
 ふたりの香水壜、昔のように、やっとあなたに手渡せる日がきました。
 ここに同封します。


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